心を洗うということ
おはようございます。
『易経』に「洗心(せんしん)」と言う言葉があります。
文字通り、心を洗うと言う意味ですが、具体的にどのようなことを指すと思われますか?
お茶会に参り、露地を入りますと、蹲踞があります。
ここでお客人が順番に、手を洗い、口を漱ぎ、躙り口よりお茶室に入ります。
この手を洗い、口を漱ぐ動作を「洗心」と言います。
神社にも手水(ちょうず)がありますが、この手水鉢の側面に
洗心と書かれていることもあり、見られた方もおいでではないでしょうか。
ですから、手水も、蹲踞と同じ作用をするものと考えられます。
では、手を洗い、口を漱ぐことが、なぜ心を洗うことになるのでしょう?
また、心を洗うと言う動作の本質は何なのでしょう?
水は古来、清きものの象徴でした。
また、時と同じように一瞬たりとも同じところに留まらないものです。
洗うと言う漢字を分解しますと、水の先と書きます。
つまり水の奥にあるのものを観るための動作が、
洗うと言うこととも考えられます。
ギリシア神話のデルフォイのアポロン神殿での
巫女の神託を観ても解るように、水の奥に観える
ものが神からのお告げなのです。
また、日本の巫女を観ても、身を浄めるために
洗うと言う動作が行われます。
洗うことにより、見えないものが観えるようになり、
あるいは神の依り代となると言うことかも知れません。
手を洗うことで神を観る力を得、口を洗うことで
体内を浄化し、神を宿りやすくする。
そしてその無垢な状態で、水底を覗き込むことで
何かが観えてくるのでしょう。
さて、皆さん、神社に往かれますと、
ご神体の移し処として「御神鏡」を
よく見ることがあるのではないでしょうか?
鏡とは神を指す言葉そのものであるとも言われます。
カガミとは神(カミ)と我(ガ)が一体化したものと
考えられるからかも知れませんネ。
鏡を観ると言うことは、神のように清浄な心根を
人間である自分に取り込んで、無垢なる目で
真実、本質を観ることなのかも知れません。
自分のこころに神を養うことが
大切なのではないでしょうか?
このことを日常で気づかせてくれるのが、
お茶席に入る前に、使う蹲踞、あるいは神社で
我々が何気なく、手を清め、口を漱いでいる手水なのでしょう。
われわれはともすれば目の前に常にあるものを
何気なく見て、大切なことを忘れてしまいがちではないでしょうか?
手を綺麗にするのは、黴菌がついた手が汚いからだけではないのです。
ご自分のこころも常に洗い、浄めているのだと
思って、手を洗う習慣をつけてみるのも
良いかも知れませんネ。
高柳昌人