「掠虚頭漢(らっきょとうのかん)」/らっきょう頭ってなんのこと?
おはようございます。
「掠虚頭漢(らっきょとうのかん)」と言う言葉があります。
唐の時代の睦州道明(ぼくしゅう・どうみょう)和尚のお話です。
睦州和尚と言いますと、臨済宗の開祖・臨済義玄(りんざい・ぎげん)をその頃の大名僧・黄檗希運(おうばく・きうん)禅師の許へと導いた傑僧です。
あるとき、一人の僧が睦州和尚の許にやってきます。
和尚が尋ねます。
「あなたは何処から来たのですか?」
これに対してその僧は大音声で次のように答えます。
「喝!」
和尚は思わず言います。
「わっははは、これはワシが一本とられた。」ここまでで終わりならば、良かったかも知れませんが、この僧、名高い睦州和尚を言い負かしたとでも思ったのでしょうか、調子に乗り。
「喝!!」
また、大音声です。
一つの方向、事に留まることを仏教では良しとしません。
この僧が同じことをいけしゃあしゃあと言ったところを見ますと、この坊主は、生半に悟ったとこころにでも権威を持っているのでしょう。
和尚は訊きます。
「喝、喝と一つ覚えのように言っているが、喝の後、この先、三度、四度目はどうするつもりか?」
「・・・。」 もう、この坊主は何も言えません。何もできません。
すかさず、和尚が棒を振り下ろして言いました。
「うそつき坊主め!」
虚空の頭をさも大事そうに掠め取ってしゃあしゃあとしている生半な奴と言う意味にお取りいただければよろしいかと思います。
この話の大本は、肯定することと否定することについての話です。
「はい」と言い続けなければいけないということではなく、また、逆に「いいえ」と言い続けなければいけないということでもありません。
嘗て、クマのブログで、対極についてお話しました。(14.3.28付、「左脳、右脳と神の脳と下の脳、能が4つ? バランスをとる向龍愛素渡(こうりゅうメソッド)」
どちらかに偏ることではなく両方をバランスを取りながら動くこと、入れ替わることもあり得るということが大切なのです。
肯定だ否定だと2つに決めつけないで、両方の立場に立って物事を観る工夫が大切なのではないでしょうか?
ものを一つに決めることが大切なのではないのです。
決めることで動けなくなることがより大きな問題なのです。
決めたことが後に変わることもあっていいのデス。
自由に動くことこそを大切と考えていただきたいのです。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
クマ向龍昇人でした。