「百丈大雄峰(ひゃくじょう/だいゆうほう)」
おはようございます。
今日は、禅語です。
「百丈大雄峰(ひゃくじょう/だいゆうほう)」という言葉を取りあげます。
これは禅宗6世・慧能禅師、南嶽懐譲禅師、馬祖道一禅師と法嗣が繋がれ、
その後を継いだ百丈懐海(ひゃくじょう・えかい)禅師のお話です。
ある僧が百丈禅師に問いました。
「如何なるかこれ奇特の事?」
これ以上ない悦びとは一体どのようなことでしょうか?
このように訊いたのですネ。
これに対して、百丈禅師は「独坐大雄峰」と応えました。
これを聞いた僧は礼拝しました。
途端に禅師はこの僧を棒で打ち据えました。
このようなお話です。
まず、仏教に於いては、仏、法、僧(教団)の三宝を敬い、
規律を守ることが大切と謂われます。
禅宗とは自分の内面に向かって一旦、修行をするのですが、
やはりこの三宝は大切とされます。
このように観ますと、「三宝を常にこころに置くこと」、
「三宝を常に考えること」
これこそが、これ以上ない悦びである、
などとクマだったら答えそうです。
しかし、百丈禅師は、「この大雄峰にどっかりと坐り、
全てに成り切っていることよ」とでも応えられたのでしょうか。
これを聞いた僧は礼拝したというのですが、
この僧は何に対して礼拝したのでしょうか?
『碧巌録』の中に、同じシチュエーションの話が他にあります。
「口唇皮禅」と謳われる禅風を起こされた趙州禅師が
この僧と同じに、師に対して礼拝して、黙ってその場を
離れたところ、師は趙州さんを褒めたと言うことです。
いったい、何が違っていたから、
趙州さんは褒められ、この僧は棒で叩かれる
ことになったのでしょうか?
禅問答では不思議な問答がいっぱい出て参ります。
「仏教に於ける道とはいったいどのようなものでしょう?」
これに対して、「それ、庭の外にあるじゃろう」
庭の先から往来に続く道を指して言う者のような応えがあります。
人間とは面白い動物です。
このような所謂、アハ体験をしたときに、
一瞬の閃きがどのように起きるかが、
人によってさまざまに違います。
師は弟子の受け答えとその表情、動作によって、
その弟子が何を観ているのかを、
しっかりと観察しているのデス。
だから、この僧が百丈禅師に向かって礼拝したとすれば、
百丈さんはこの僧の中に未だ悟っていない様子を
観たのではないでしょうか、
あるいは、なかなかよく考えておるわい。
しかしながら、ここで褒めれば小悟のままで、
鼻高々と大悟したと思い込むことを予感したから、
打ったのではないでしょうか?
今日は、2つのことをお話しました。
1、「独坐大雄峰」とは、お釈迦様の仰られた
「天上天下唯我独尊」と同じく、
全てが自分に内包されている、
あるいはすべての中に我も含まれていると言うこと。
2、お釈迦様が一つの説法をお話になられるとき、
その人が理解できるように喩えを変えて
お話になられた「五時八教」と同じで、
師は弟子や相手の全てを観ながら応対している。
このように考えることが大切なこと。
今日はこの辺で。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
クマこと高柳昌人(向龍昇人)でした。