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自分の器量を他者に与える

器量はどこまでも大きくなる。
そのためには他者に与えることを学ぶ ー「安分以養福」

~現代は「所有」を価値とする時代ではないのです。
自分のこころを削って他者に分け与えることで
あなたのこころはダイヤモンドのような
輝きを放つのではないでしょうか? ~

目次

「安分以養福(ぶんをやすんじ /もって/ふくをやしなう)」

今だにA君は、口癖のように「自分の能力はこんなものです」と言っています。
「A君は、もっと能力があればよいと思いますか?」
「そりゃ、そうですよ。もっと能力があれば出世して・・・」
「では、これからその能力を高めるのはいかがでしょうか?」
「今からじゃ遅いですよ」

 このような会話になったので「安分以養福」という禅語を伝えました。

「A君は、この言葉から聴こえてくることは何でしょう?」
「自分の分をわきまえることが幸せということですか?」
「分をわきまえると言うことを他の言葉で表現すると、どんな言葉になりますか?」
「自分の能力の限界を知ることと我慢することです」

このように未来に夢のないことを言ったので私の解釈を話しました。
まず、「安分」と言う言葉は、分けると言う漢字が入っているので、
大きさが決まっている塊が在り、それを幾つかに分割して、
一つをその人の分として確保する(安んじる)ことと
考えるのでしょうが、
人がそれぞれ持つ器に限界はないのです。

個人のこころの持ち方で大きくもなったり、
小さくもなったりするものではないでしょうか。
 人はこころの持ち方一つでどのようにも変化できるのです。

達磨大師と二祖・慧可の話に「安心」と言う話があります。
慧可が、いつも心が不安であると大師に言ったところ、
大師は「それではその不安な心をここに差し出して見よ」と
言います。

慧可はこれを聴き、
不安な心など本来は何処にもない、
自分自身が創り出した幻影に過ぎないことを
看破しました。

だから、元々分けること能わずと言うこころや
器量をその時の自分の限界と決めることに
何の意味もないでしょう。
 
ただ、その時の自分の器量をしっかりと自分自身で図量し、
認識して置くことは大切なことでしょう。
 
更に、その分量を持っていることに安心するのではなく、
その手に持てる分量をしっかりと把握できれば、
他者のためにどのように使うことができるかを
容易に理解できるのではないでしょうか。
 
このように「安分」できれば、
この器量を以て、「福を養う」ことができるのです。

「福」とは、元々神仏への供物を下げ戴くことを
指しているのですから、福を養う、大きくするためには、
まず自分が持っている「安分」たる器量(物心両方)を
神仏に差し出す。

平たく言えば他者に差し上げることが大切だと
言っているのではないでしょうか?

自分の現在の分をわきまえず、背伸びしてみせても
化けの皮は直ぐに剥がれてしまうものです。

全てが自分のためだけと考えているならば直ぐに、
見えてしまうものです。
 
しっかりと自分の分を図り、それを全て自分の物とせず
他者に分け与えるこころが、福を養うことに
繋がるのではないでしょうか。

ここまでお読みいただきありがとうございます。
クマこと高柳昌人(向龍昇人) 拝

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