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『他是非我(たは/これ/われにあらず)』

おはようございます。
今日は、久しぶりに「前後不覚」なお話です。

『他是非我(たは/これ/われにあらず)』という言葉があります。

「他の人は自分じゃあないんだから。」

このような意味です。

なんだ、あたり前じゃないのと仰る方が多いのではないでしょうか。

まあ、そう言わずお聴きください。

 

 

 

目次

道元禅師と『典座経訓』

道元禅師が、中国で修業をされていたころのお話です。

そのお寺にある年老いた典座(てんぞ)がおりました。
典座とは、修行僧のまかないや仏様や祖師への供物を作り、差し上げる役です。

年老いた典座が夏の暑い最中にシイタケを干しておりました。
衣服は汗でべっとりとし、顔からは玉のような汗が噴き出しておりました。

禅師は思わずその典座に言いました。
「そんなことは若い修行僧にさせればいいでしょうに。」

典座は答えました。
「他是非我」

他の人がやったのでは自分がやったことにはならない。
自分がやらなくてどうして自分の修業になるのか?
このように答えたのです。

今や情報の時代と言われ、膨大な情報がインターネットにあります。
欲しいと思うことはどのような論文でも無料で手に入る時代です。
学生はコピペと言う魔法の呪文を唱え、自分には理解できないまま、情報だけを取っています。
道元が生きた時代は、鎌倉時代初期ですから、
1200年代、今から800年以上も前の時代です。
その時代は情報の遣り取りが難しい時代でした。
勿論、地理的環境、文化的環境が違うのですから、
一つの情報を得ることが大きな意味を持っていました。

だからこそ、仏典一つを敬い、一つひとつ書き写す。

この書き写す行為の内に、自分の頭の中で書き写している文章を整理し、きちんと理解していたのだと思います。(勿論、その時代にもアルバイトはおり、仏典をお金を払い、書き写していただいていた人もいたようですが。)

情報はその時代も今の時代も重要なものです。
ただ、古くは情報の選択が比較的容易であったが、
現代では情報量が多すぎて、どの情報が本当に
重要なのかの選択が難しくなっているのでしょう。
その結果として、情報を安易に考えてしまうのでしょうかネ?
本末転倒ですネ。

自分がやらなくて誰が代わりにやってくれると言うのでしょう。 『他是非我(たは/これ/われにあらず)』

現代は、繋がりの時代、共存の時代であるとは思いますが、
この前提となることは、個々がしっかりとした
自己基盤を持ち、自律することだと思います。

共存だからと言って、簡単に他者が熟考し、作った物事をコピペと言う魔法で、さも自分の言葉のように使うのは如何なものでしょうか?
そんなことをしても、この典座が仰るように、
「何ら自分の修業にはならない」のではないでしょうか?

日本にお帰りになり、曹洞宗をお創りなられた道元禅師は、
このような典座から修業の在り方を教わったとして、
『典座教訓』をお書きになられたことは大切なことだと思います。

われわれはともすれば、典座と言うのは、
修行僧の食事を作るのだから、
僧だとしても下の位だと思いがちですが、
禅宗にとっての食事そのものが重要な修業なのですから、
この典座になるのは経験が豊かで、優しい人が選ばれたようです。
だから、道元もこのような典座にいろいろと教わったのではないでしょうか?

自分がやらなくて誰が代わりにやってくれると言うのでしょう。
『他是非我(たは/これ/われにあらず)』

今日は、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
クマこと高柳昌人(向龍昇人)でした。

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