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「節分」ですね

おはようございます。

今日は「節分」ですね。
節分とは字の如く、季節の変わり目を指す言葉ですので、1年に4回、
立春、立夏、立秋、立冬の前日を指していたのですが、
現在では、立春の前日のみを指します。
今年は、昨年とは違い、百何十年ぶりの2月2日ではなく、
通常の2月3日となります。

そして明日はいよいよ「立春」です。
旧暦で言うところの新年となります。
だから、今日は新年を迎える前の
季節が変わる日、「節分」です。

さて、世の男性諸君!
このようなご時世なので早めにご帰宅
なさるでしょうが、あまりに遅くなりますと、
「鬼は外っ!!」とばかりに豆をぶっつけ
られることに相成ります。

クマからすれば、遅くなったのも
仕事の内だと言いたいのですが、
あまりにも奥様の形相が恐ろしくて、おそろしくて。
どちらが本物の鬼か解りませんヨネ。
でもネ、このようなことを面と向かって言った日にゃ、
女房殿が犬に忽ち変身し吠えたてられ、
猿に変身して引っ掻かれ、
雉になっては鋭い口先から出るお言葉で
心臓を抉られることにもなりかねません。

奥様はいつでも桃太郎

こころの奥に 犬、猿、雉の家来置き(桑原、桑原:クマ)

上句はクマが愛している奥様に捧げる詩でございます。
「桃」は不老不死の食べ物として西王母が食すものです。
我が女房殿にはいつまでも若々しく元気でいて欲しいとの
願いを込めた詩でございます。

そのこころの内に秘めたご家来衆がいつまでも
出てきませぬことを願って、

だから本当の節分の豆撒きは、
「福は内、鬼も内」が宜しい様で。
そういや、京都の壬生寺では、
壬生狂言として有名な『節分』がこの時期に催されます。

このお話は桃太郎の鬼退治とも似た話なのですが、
蓬莱島に住む鬼がある女御に懸想をして迫りますが、
この女御、意志が強くてなびかぬばかりか、

鬼の持っていた隠れ笠、隠れ蓑、打ち出の小槌と
謂う宝物を奪い去り、揚句の果てに
豆をぶつけて追い払うと言うお話です。

まあ、この狂言は、民俗学的見地からすれば、
遠方より村に訪れる者から新しい知識、智慧、
はては新しき血を授けてくれると謂う意味や、
古き年から新しき年へと変化する際に来る「訪れ神」の
意味合いがあると思われます。

この話は後程詳しくお話しましょう。

そうそう、関西から渡ってきた今、流行りの「恵方巻き」なるもの。
なんだかよく、解らないけれども、この豆撒きにおいて、明けの方角、
つまり恵方に向いて豆を撒く仕来たりがあったようで、
これがホントの「恵方撒き」なんてネ。

豆を撒いて難を除くというのは、実は日頃、
マメに働き、自分に正直に活きることが
難を寄せ付けない方法であると言っている
のではないかと、クマは思っています。

閑話休題、
歌舞伎に『三人吉三(さんにんきちざ)』と言う出し物があります。
その中のお嬢吉三が言うセリフ。

「竿の雫か濡れ手で粟 思いがけなく、手に入る百両」
このように言いますと、舞台上手から、声が掛かります。
「御厄、祓いましょう、厄落とし!」

これを受けて、お嬢吉三が、
「ほんに今夜は節分か 西の海より川の中 落ちた夜鷹は厄落とし 豆だくさんに 一文の 銭と違って 金包み こいつぁ春から 縁起がいいわえ。」と決まります。

ここに出てくる厄落としとしての節分です。
江戸時代は旧暦ですから、立春が一年の始まりとなりますので、

今日の節分会は一年の最後の年ということになります。
ですから、一年の厄を落とそうって言う按配でサア。

しかしながら、何となく鬼が可哀想だと仰るあなたに。
昔は交通手段も歩くだけと言う時代でした。
また、自分の村を離れることも難しい時代だったようです。

ですから、旅人が来ることは稀なことでしたので、
旅人が来れば色々な地方の話が聞くことができたのです。
また、珍しいものを村に置いていくことさえあったかも知れません。
このようなことから、外の世界から来た者を
訪れ神として供物(くもつ)を供えたと思われます。

福と言う訪れ神は家の中に入れ、鬼と言う訪れ神には
外にいていただく代わりに、散供として
豆を撒いたとも考えられるのです。

さてさて、いつの頃からか、福と言う福神と
鬼と言う悪神を創りだしたのでしょうネ。

良いものと悪いものの2つに分化するのは、
見えやすいのかも知れませんが、

でもね、本当にこの2極化が正解なのでしょうかネ?

鬼を祖先に持つと言う家系があり、
そこでは鬼のために、膳を並べ、
寝床を敷いて泊まっていただくそうです。

「福も内、鬼も内!」
こんな素適な日の本の文化にありがとうと思います。

「本に今夜は節分会、御厄、祓いましょう、厄落とし!」

<時候を表わす季語>
ここはもう、「鬼やらい」、「追儺(ついな)」が
代表的な季語でしょう。

追儺は本来、大晦日の宮中行事でしたが、立春の
前日の節分会に行われるようになっています。

これは旧暦を新暦に変えたから生じた
時間的変移と言えましょう。

なぜならば、旧暦では、元旦が立春になるように
調整されていたので、その年の神様と新しい年の
神様が入れ替わる一瞬、今で言えば、
タイムスクエアー前でのカウントダウンと
言えば解りやすいでしょうか、

この一瞬に魔が入らないように大晦日に難を払う行事として、
追儺式や鬼は外と言う節分会を行ったのでしょう。

だから、タイムスクエアー前でのカウントダウンも鬼やらいなのです。
なぜって、あの近くに、エンパイヤ・ステート等の魔天楼があったでしょ?

(訂正、怒られますネ、摩天楼でした。)
同じような意味での季語に、「豆撒き」、
「年の豆」、「鬼は外」、「福は内」というのもあります。

鬼のいる

彼の地にもそっと

福の豆 (クマ:お粗末)

新しい年はすべての人々が幸せになれますように。

<時候を表わす色>

正月も過ぎ、平常の落ち着きが戻り、新しき年を
一歩一歩進まれておられることでしょう。
しかし、暦の上では前候が1年の最後の候なのです。
そして、この節分会を終え、明日になりますと、
立春と言う新しい年が始まるのです。
エッ!?
もう一回、新しい年になるの?
そうなのデス。
1年と言うサイクルを経ることで、何事も摩耗して参りますので、
新しく力を宿すようにと一回転させ、次のサイクルに移るのです。
だから、1年を経た色としては、色が深くなった
「黒」が適当ではないでしょうか?

お日様が昇ることを日が明けると言います。
そして、お日様が沈むことを日が暮れると言います。

ここから、
明ける → 朱(あけ)、
暮れる → 黒
と観ることは、そんなに離れていないのではないでしょうか?

「黒」と言えば、玄人という言葉が浮かびます。
玄人とは道を深く極めた人のことを指しますので、
深く真理を求め、あらゆる知識を学び、
智慧を深めるイメージがあります。

だから、黒と言う色は、あらゆる色を
含む色なのではないでしょうか?

先ほど、1年の経過を摩耗と言いましたが、
もう一方では、様々な経験を経て豊かに
成長した内面も持っているのです。

喩えとしては悪いかも知れませんが、
ブラックホールは、無の暗黒ではなく、
すべてを中に含んだものなのだと思えるのです。

この「黒」と言う色は、日の本の古い色の一つです。
漆黒の器の持つただ暗いだけではない
引き込まれそうになる華やかさ。
これが黒なのでしょう。

1年を振り返って、ご自分の色が摩耗した色なのか、
それとも色々な経験を行動の基とした奥深い
漆黒の色となっているのか。

この1年、1年の積み重ねが、漆を何十回も
塗り重ねた真の黒となるように、
新たな気持ちで、次の第1候に臨みましょう。

さてさて、このようにツラツラと長~く、
お話してきて、最後にクマからのお知らせでございます。

2018年の2月3日に1冊目の本として『クマさんの「接包」コーチング」(幻冬舎)と題して、自分の軸を作り、他者のことを慮り行動実践していくと言うテーマで出版させて頂きました。

そして2019年10月29日に『季語と色で知る七十二侯〜日の本 歳時記エッセイ』(幻冬舎)と題して、その自分の軸を作り実践するためには自分の心の中に豊かな感性を磨くことが大切だと言うことをテーマとした本を出版させて頂きました。

人が生きていく上で大切な「自分を磨く」「行動力」「感性」「共生」。
今年はこれらを軸として皆様と共に私塾を作って参ります。

塾名を『喜べる今と未来をつくる@人生10倍改革』
と考えています。

どのようなことができるかわかりませんが、
ご興味のある方は是非、先ずはクマの2冊の本を読んでください。
追々と、お話しして参ります。

今日はここまでお読み頂きありがとうございます。

高柳昌人でした。

 

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