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採菊東籬下 悠然見南山

おはようございます。
「採菊東籬下(きくを/とうりの/もとに/とる)
悠然見南山(ゆうぜんとして/なんざんを/みる)」

中国の南北朝時代(4世紀頃)の陶淵明の詩ですが、
「自分の家の東側の垣根の下の菊を手折った。垣根の外をゆったりとした気持ちで覗くと、そこには南山がぽっかりと浮かんで見える。」
このような意味になります。

これのどこが禅語なの?
そのように仰る方は正解です。
陶淵明は僧ではなく詩人ですから、お坊さんじゃなく、禅語じゃないですヨネ。
それと、禅を中国に伝えた達磨大師は5世紀後半の人で、
陶淵明の時代より100年程も後の人です。
禅語の概念が未だ出来てはいないのですから、
やはり禅語と言えないのです。

こう言うときは、えい、やっとばかり煙に巻きます。
「えへんっ! これを善語と言う! ゆったりとした気持ちでもう一度読んでご覧なさい。何とはなしに気持ちがおおらかになり、真実が観えてくるじゃろう。」

閑話休題、
皆さん、いかがでしょうか?

何気なく読んでしまう詩ではないでしょうか。
クマももっと若い頃にこの詩を見て、字そのままにありふれた詩と思っていました。

しかしながら、最近、この詩の上の句のお軸に出合うことがありました。
不思議な気持ちですが、お軸の向こうに高く悠然とそびえる山々が観えたような気がしました。

自分の境界を作って、そこに閉じこもっている限り、外の景色は見えないのです。

この詩では、垣根の下に可憐に咲く野菊に耳を寄せて、
菊の話を聴くことができたからこそ、
ゆったりとした気分で身体を起こした。

その瞬間、垣根の外には実際には見えないであろうが、
ゆうゆうたる連山が彼には観えたのでしょう。

われわれも自分の垣根の中にいて、そこからは
なかなか飛び出せないのですが、
自分の垣根の内をゆったりと眺める気持ちを持てば、
外の世界が広がって見えてくるのかも知れません。

「十牛図」ではないのですが、本当の悟りとは、
本来、人々の中にあり、自分の事を楽しみ、
周りの人々と楽しみながら、同時にいつでも
遠く頂を観ることを指すのだと
思うようになってきました。

*「十牛図(じゅうぎゅうず)」については、またの機会に「露地白牛」をお話しいたしますので、ご覧いただければと存じます。

 

 

目次

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