雲門在汝脚跟底(うんもんは/なんじが/あし/こんていに/あり)
おはようございます。
小さい頃、母や祖母が会う人、会う人毎に挨拶をしているのを
見て育ったからでしょうか、朝、道行く人に出合えば自然と、
「おはようございます」と言う言葉がでます。
最初はまったく無視をしていたご仁が、
次に会ったときには訝しげにですが、
軽く会釈をしてくれます。
その次にあったときには、
相手から「おはようございます」
と言う言葉が聞えてきます。
その後、色々な話をする機会を得る方、
朝の挨拶だけの方がいらっしゃいますが、
「おはよう」と言う言葉は、素適な一日を予感させる言葉です。
目次
雲門在汝脚跟底(うんもんは/なんじが/あし/こんていに/あり)
『碧巌録』に「雲門在汝脚跟底(うんもんは/なんじが/あし/こんていに/あり)」と言う言葉があります。雲門在脚下(うんもん/きゃっかにあり)と言うこともあります。
さて、雲門とは何でしょうか?
昔、フォークルセーダーズが酔っ払いの神様を歌っていました。
そのときに、死んだ人が雲の中を進んでいきますと、
大きな門に出くわします。
これが仏神が住んでいる世界への入り口です。
(まあ仏と神が住む位界は異なるのですが、
ここでは難しいことは抜きにしましょ。)
禅僧はこの雲門を求めて、様々な修業を続けます。
艱難辛苦の行を繰り返し、繰り返し。
そうすればいつか雲の上にあると謂う仏の世界に
辿りつくことができると言わんばかりに。
今日の禅語は、「その雲門ならば、お前さんの
足元にしっかりとあるじゃないか。
なにを大層なことを言っているんだえ?」
ってなもので茶化してしまいます。
日常にあることが本当に大切なこと
なのよと言うことです。
われわれ人間がこの世に生れて勉強させていただくことは、
記憶にすらない仏神の世界を探求することではなく、
隣の人との関係を築くことではないのでしょうか?
紙に書いてある書物で言っている蘊蓄なんて、
ほっとけ、ほっとけ。
(うん? 仏? ホントけ?)
それよりも隣の人と話をすることが大事と気づけ!
なんて聴こえてきます。
神仏を信じないのは罰が当たるよと
言われるかも知れません。
仏神が在ることは感じていますが、われわれは仏神を
この世に求めるために、生まれたのではありません。
われわれ自身が仏神になるために
この世でやるべきことがあるのです。
人として他者との共感、他者への
思い遣り等、他者がいて自分が在ることを
学ぶ必要があるのではないでしょうか?
出合う人々とのふれあい、出合う自然への感謝、
これらをしっかりと感じながら毎日を
活かせていただくことが大切。
だから、合った人には、「おはよう」、
合った花には、「おはよう」と
笑顔で言える朝を過ごしたいものです。
今日も一日、顔晴りましょ。
結芽創造研究所 高柳昌人でした。
*顔晴れは、私が頑張れと言う漢字(感じ)が
嫌いで造り出した言葉です。