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歳月不待人(さいげつ/ひとを/またず)

正月も早過ぎ、もう半月。
どのような時間を過ごされているでしょうか?

今日は、「歳月不待人(さいげつ/ひとを/またず)」を
お話しします。

よくお茶のお稽古に妻はこのお軸を使います。
どんな意味で捉えているのと聞きますと、

「クマさんはまた私を凹まそうとしてるんでしょ!」と
言いながらも、次のように答えてくれました。

(そうそう、私は周りからクマさんと呼ばれています。)

「これは、陶淵明の詩で、月日の流れは人を待ってはくれない。
だから、一所懸命に物事を務めなければいけないのよ」
「一年を締めくくり、新しい年をお迎えする準備をする今にこそ、相応しいお軸だと思うわ」

(お茶の世界も旧暦で動いていますので、新年は立春(2月4日)からです。)

なるほど、流石にクマのお師匠様でございます。
さらっと回答がでました。

目次

手段に囚われてはいけない!

陶淵明は3~4世紀の中国・魏晋南北朝時代の方で、
日常生活に即した詩を書き、人生の大半を隠遁生活を
してはいたが、当代きっての有名人と言えましょう。

例えば、理想郷・ユートピアのことを桃源郷と言いますが、彼が書いた『桃花源記』が、今でいうSF小説とも言えるもので、桃源郷と言う言葉の元とされるものです。

また、彼の有名な逸話として、
「無弦の琴」と言うことが挙げられます。

一張(いっちょう)の琴を持っていた彼は、
酔うとその琴を手にし、琴の調べを楽しむのです。

でもネ。
一張と言いながら弦が張っていないのですヨ、
その琴には。

彼は、弦の張っていない琴が妙なる調べを奏でて
くれるのを喜んで聴いていたそうです。

以前、お話しました明治時代の落語の大名人、
三遊亭圓朝師匠の

「手前は口無しでお話申し上げますので、
お客様にはどうぞ耳無しでお聴きください」
と言う枕と似ています。

陶淵明はこのように言いました。

「ここに在るものを知るだけで、手段に囚われて
いては、学問の真髄に決して触れることはできない」

このような前置きを踏まえて、今日の一文を含む詩を観てください。

人生無根蔕 飄如陌上塵 
分散逐風轉 此已非常身 
落地爲兄弟 何必骨肉親
得歡當作樂 斗酒聚比鄰 
盛年不重來 一日難再晨 
及時當勉勵 歳月不待人

人生と言うものを考えれば、植物の根や、果物の蔕(へた)のように根幹にしっかりとくっついて、どっしりとしているものではなく、

あてどもなくまるで道に舞い上がる塵のようなものだ。

風が吹けば、ばらばらに吹き散ってしまい、
常の我が身など何処にも有り得ないのだ。

我々人間は、すべて生を受け、この地球と言う地に
落ちてきた同胞なのだ。

何も骨肉(親とか兄弟の肉親)に拘る
必要などないのだ。

嬉しいことがあったならば、皆、一緒に
楽しむべきではないか。

大量の酒を用意して、近所の者を皆集めよう。

若いときは二度と戻ってこないのだから。
今日と言う日は二度来ないのだから。

ちょうど良い時ではないか、
大いに楽しもうではないか。
歳月は我々に永劫の時を与えて
くれはしないのだから。

人間の一生は夢のようなもの

信長が舞ったので有名な幸若舞の『敦盛』に、
「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり 
この世に生を受け 滅せぬもののあるべきや」と
言う、節があります。

ここで言う人間五十年とは、実は我々が考える
時間の長さとは違うものなのです。

人間の持つ欲とは違うのですが、天界においても
やはり欲はあるようです。

天界における欲の度合いによって6つの段階に分ける
六欲天の最下層が、下天と言われますが、
人間の五十年に及ぶ人生すべての時間が、
下天における一昼夜に過ぎないと言われています。

このように考えれば、人間の一生などは
夢なのでしょう。

陶淵明の言っていることも
同じではないでしょうか?

そうであれば、己を観つけるために一所懸命、
勤勉に修行することが正解だとか、

あるいは、短い人生なのだから、大酒を喰らい、
大いに人生を楽しもうと言うことが正解と、
どちらが正しいと極め付けることなんて
ないのじゃないでしょうか?

ただただ、その瞬間、瞬間に生き切っていくと言う
気概こそが必要なのじゃないでしょうか?

我々に与えられた月日が限りあるものだからこそ、
何をやってもいいから、その瞬間はそのことに
成り切ることが肝要なのではないかと思います。

今日は、ここまでお読みいただき、
ありがとうございます。

結芽創造研究所 高柳昌人

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