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コーチングが人の心を育てる

目次

心を育てるーコーチングの本質と実践法

世界中で政治が混乱しています。

皆さん、「コロナのせい」と仰るのですが、
いえいえ、国を守る政治家が確固たる信念を
持たず、あたふたしているせいなのかも?

アメリカ、ヨーロッパを見ていて、いや、
日本を見ていても、いったい政治とは本来、
誰のために利や益をもたらすものなのかと
訝しんでしまいます。

さて、戦前から戦後の日本の政治家の多くに
師と仰がれた故安岡正篤(やすおか/まさひろ)師と
言う方がおいでになられました。

安岡師は、世間からは、政財界の黒幕と謂われましが、
ご自身は陽明学を基とし、教育者であると仰っていました。

戦後、自民党という長年、政権担当である政党で
総理大臣を務めた方々が教えを乞うために、
老師の下へ日参したと聞いております。

さて、この安岡師の信条として、
「六中観(ろくちゅうかん)」と言う
ものの見方、考え方があります。

1、忙中有閑(ぼうちゅう/かん/あり)
2、苦中有楽(くちゅう/らく/あり)
3、死中有活(しちゅう/かつ/あり)
4、壺中有天(こちゅう/てん/あり)
5、意中有人(いちゅう/ひと/あり)
6、腹中有書(ふくちゅう/しょ/あり)

この六つを老師は常にこころに帯同し、
一期一会を実践なさっていたのでしょう。

この六つをひとつづつ見ながら、
コーチングの本質と実践の方法を
考えてみたいと思います。

1、忙中有閑(ぼうちゅう/かん/あり)

忙しくて、忙しくて、一瞬の閑(ひま)もない。
このように仰る方がいます。

このような方は段々に心が疲弊し、
相手のことが観えなくなっていくことがあります。

いや、相手だけではなく、ご自分の心さえをも
見失ってしまうことがあります。

これを、「忙」と言います。
漢字はそのものの感情を字体に示したものです。
こころを亡くすと記して、忙(ぼう)と読みます。

また、閑を「ひま」と考えてしまうと、
老師が仰ることは体得できない様に思います。

ここでの「閑」は、「閑古錐(かんこすい)」に
観える「かん」と考えます。

古くなった錐(きり)は、先が丸くなって
もう使えない状態です。

しかしながら、これまで使われてきて、
何とも言えないどっしりとした
風情が感じられませんか?

買ったばかりの錐は大工さんの仕事を
捗らせたことでしょう。

反面、錐の切っ先が鋭く、大工さんの
指先を突いたこともあったのではないでしょうか?

この古くなった錐を見るたびに、
その大工さんの辿ってきた
道のりを顕わにしてくれる
のではないでしょうか。

この年老いた大工さんや、そのお弟子が
この錐を見るたびに、心安らかになったり、
心が奮い立ったりするのではないでしょうか。

ですから、この「閑」は
「心が静かに落ち着いた様」を
現していると考えたいものです。

現代のわれわれは、情報が多過ぎの状態である
にもかかわらず、その情報を全て採りこもうと
躍起になるあまり、

本当に大切なもの、ことを蔑にしてしまう
傾向にあります。

忙しさの中にいて、自分や他者に
心を置くことが肝要と
考えて生きたいものです。

2、苦中有楽(くちゅう/らく/あり)

われわれは人生を、山谷を辿る道に喩え、
「人生、楽あれば、苦あり」とよく言います。

これによって、苦と楽の二重構造を考えてしまい
がちになりますが、しかしながら、安岡老師は、
「苦の中にこそ楽を観つめよ」と仰います。

苦と楽は一体、あるいは同心円上のことと
捉えておられるように思います。

皆さんは苦と楽が同じことって
信じられないのではないでしょうか?


例えば、お茶を習っていなくとも、
お抹茶を飲む機会はあるでしょう。

初めてお抹茶をいただいた方の反応は、
「苦い!」、あるいは、「甘い(美味しい)!!」の
両端に分かれるようです。

同じお抹茶をいただきながら、
何故このような両極があるのでしょうか?

勿論、舌の感覚という個人差も考えられますが、
お抹茶そのものの中に答えがあるようです。

お抹茶は、お茶の木の若葉を摘んで蒸して、
撚って、乾燥したものを粉にします。

この粉茶に含まれる成分として、コーヒーに
代表されるカフェイン、柿に代表されるタンニン、
そしてお茶と言えばこのカテキンが挙げられます。

この中で、カフェインは苦みを感じ、
タンニンは渋みを感じます。

カテキンも渋みの元ですが、あまり日光を
浴びていない若葉の中には、

テアニンが多く含まれており、
このテアニンが甘さの元となります。

ただし、このテアニンは日の光を多く
浴びますとカテキンに変わり、
苦みの原因となってしまいます。

玉露と言うお煎茶をお飲みに
なられたことがあるでしょう。

とっても甘く、それこそ、鑑真和尚
ではないですが、「甘露、甘露」と
言いそうですネ。

この玉露は、若葉を摘む2週間ほど前から、
若葉に覆いをして、光を当てないように
することで、テアニンがカテキンに
変わるのを防いでいるのです。

さて、このような成分がすべて、
一粒のお抹茶の中に入っているのです。

苦みはこれ。
渋みはこれ。
甘みはこれ。

ここからここまでが苦み、
ここからが渋み、
甘みはここからと分かれている
ものではないのです。

以前、陰陽の話の中で、陰と陽は完全に
異なるものではなく、動くことで
陰は陽に変わり、陽は陰に変わり
得るとお話しました。

苦と楽も同じではないかと思います、

このことは、我々人間の中にも
言えるのではないでしょうか?

楽を求める過程に於いて、苦があり、
苦の真っただ中にいて、楽(楽しさ)がある。

よく、年老いて成功なさった方々が
若いときのことを思い返し、仰います。

「あの頃は何にもなかったし、
苦しかったけれど、
活き活きして楽しかった」
これは真実のような気がします。

さらに、次のような屁理屈を
ご用意いたしました。

苦みの「苦」は草カンムリに
古いと書きます。

東洋医学では、草を乾燥させたり、
蒸したりし、時間の経過によって
生薬を生みだします。

つまり、草の苦さは時間の経過
(古さ)によって薬に変化するのです。

「薬」と言う生薬を使って、
われわれの身体を「楽」にするのです。

苦い草を煎じて飲んだら、
身体が楽になります。 

草カンムリに楽を合わせた漢字が、
薬と言う字です。

このように観ますと、
苦と楽は同じ作用の異なるベクトルと
言えるのではないでしょうか?

われわれは、楽を求めるために、
苦を避けるのではなく、苦の中にいて、
働くことができることを
楽しみたいものです。

自分が働くことで、
傍(はた/他の人)を楽にすることを信じて。

3、死中有活(しちゅう/かつ/あり)

苦と楽が同じことなの? 解んないっ?
て仰る方がいました。

「なんで私だけが苦しまなきゃいけないの」
「楽なんて一生来やしない」
「あいつばっかり楽をして」

このように言う人にとっては、確かに苦と楽が
同じことなんて思えないでしょうネ。

この方は、自分のことだけ見ているのです。
そして、他人を見たときにもその人が羨ましくて
うらやましくて、それに比べて自分は・・・。
と自分にベクトルを当ててしまうのです。

「苦」を「公」とか「共」と考えれば
いいのですが、難しいでしょうネ。

さて、今回はもっと難しい話になります。
なんせ、「死中有活(しちゅう/かつ/あり)」ですから。
こんな話から始めましょう。

江戸時代中期(1700年代前期)、佐賀鍋島藩の
山本常朝(やまもと・つねとも/じょうちょう)が
口述した『葉隠(はがくれ)』に、
「武士道とは云うは死ぬことと見つけたり」とあります。

『葉隠』とこの言葉はあまりにも有名になり、
潔く死ぬことを本質と看做している方が多くなりました。

しかしながら、この書物の本質は、生きることにあります。

彼は、次のように言っています。
「朝毎に懈怠(けたい)なく死して置くべし」
「行動するときは死にもの狂いであるべきだ」

朝起きて、夜寝て、次の朝、起きる。
この何事も無いような、また、連続しているかの
ような人生を送っているクマにとっては、
誠に痛い言葉に聴こえてきます。

怠け心を持ってだらだらと生きることに
何の意味があるのか?

一日一日を死に切り、生き切ることを
こころに帯同させることこそ肝要。

また、生きると言うことは行動することに
他ならないので、

行動するときは全身全霊をかけ、
死にもの狂いで行う。

しかし、何も考えず急いで動くことは、
行動することとは違います。

「大事の思案は軽くする。平素から考えておくことだから、
いざというときはそれを思い出して簡単にやってのければいい。
日ごろの覚悟がないままその場で判断しようとしてもそれは難しい」
と教えていただいているのです。

この山本常朝と同じく、安岡老師も
「死中有活」と申されておられます。

だらだらと生き永らえることに
何の意味があろうか。

一瞬一瞬に全身全霊を打ち込んでいくことで、
死地に在って意外と活路が開けるのである。

ここから生じた何ものかが永遠に残るものであり、
これを永生と師は考えておられます。

これらの考えは、「一期一会」と同じ
ベクトルを持つものと考えます。

なぜならば、「一期一会」とは、
何も他者と会うことのみに言及しているのではなく、
自分自身との一瞬毎の会合を指しているからです。

一瞬一瞬を生き切り、死に切ることを先師たちから
示唆されていながら、なかなかこの考えに
行き着かないクマの怠惰に呆れ返ってしまいます。

よくピンチはチャンスと言われますが、
ピンチになってから考え始めるようでは
駄目なのです。

そして、簡単にチャンスが来ると
思うことはダメなのです。

後悔を残さないよう真剣に一日一日を生き切り、
今ここで死んでもいいと思うまで
自分の行動に責任を持つことで、
死活を得るのである。

このように両師から教えていただきました。

4、壺中有天(こちゅう/てん/あり)

壺の中に、別天地があると言いますと、
そんな馬鹿なことを言ってと、
一笑に付されてしまいます。

でも、この言葉は次のように考えられないでしょうか?

われわれ人間は身体と言う小さな壺の中にいますが、
精神はこの身体を飛び出て、自由に動き回ることが
できるのではないでしょうか?

それこそ、自分の身体の中にある宇宙を観ることも、
自分の身体の外にある大宇宙を観ることもできるでしょう。

例えば、あなたは、夢を見るでしょ。
夢の中では、あなたは何処の世界をも
覗くことができるのです。

また、独自の世界観をお持ちの方は、そもそも、
小さな壺のような肉体に精神までもが
閉じ込められてなんかいないでしょう。

小さな壺から上を望みますと、大きく真っ青な空が
見えるのではないでしょうか。

大きな別世界が広がって
観えるのではないでしょうか。

常に自分を鼓舞し、小さな自分に満足せず、
大きな世界があることを看破せよ。

これが、安岡老師の仰る、
「壺中有天」ではないでしょうか。

さらに、自分の外に目を向けることは大事ですが、
自分のこころの中を覗いて観ますと、

そこには、別天地があることをありありと感じる
感性を養うことも肝要なのではないでしょうか。

注:この、「壺中有天」という言葉の原典は、『後漢書』の第七十ニの下(「方術伝」)に、「費長房伝」として収められているものなのですが、原典では、薬売りが一日の商売を終わると店先の壺に飛び込んで出てこないのを怪しんだ費長房がこの店主に問いただすと、この壺の中に別天地が在り、毎日そこに行って立酒や魚を楽しんでいると言う。費長房はこの店主と共に壺の中のベ世界に入り込み、楽しんだと言う故事からできた言葉です。

5、意中有人(いちゅう/ひと/あり)

あなたは、あなたの心の中に、この人は信頼できる、
この人は自分にとって大切な人であり、

どのような場合でも、他者に推薦することが
できると言い切れる人を何人持っていますか?

これは実に難しい!
あなたが他者にその方を推薦すると言うことは、
あなた自身を試されると言うことでもあります。

また、あなたが腹を決めた一日いちにちを
向かえていなければ、

そもそも意中の人など、あなたの腹に
じっと収まってなんかいないでしょう。

あなたが勝手にこの人こそは意中の人だと
決めていても、気がつけば、相手は、
異宙の彼方に行ってしまって
いるんじゃないでしょうか?

相手の心の中に、あなたが意中の人として
在らなければ、なんであなたの心の中に
その方が住んでくれましょうか?

お互いがお互いを敬愛し、感化し合う関係を、
クマ語で、「添うし想合い」なんて申します。

「意中有人」と敢然と言える状態になるために、
忙中有閑、苦中有楽、死中有活、壺中有天を観想し、
日々、己を鍛練することが求められます。

忙中閑から発し、ここまでお話してきた言葉は、
それぞれが一つひとつの観想ではなく、
繋がり合っている、あるいは
重なり合ってあなた自身を
創り上げてきたことなのです。

6、腹中有書(ふくちゅう/しょ/あり)

「知識の時代」、「情報の時代」と言われ
長く生きてきましたが、気付けば、

個々人が知識を幾ら頭に詰め込んだとしても、
現在のWikipedeaの持つ情報量には敵いません。

エンサイクロペディア・ブリタニカの百科事典は、
1768年に刊行され、200年以上も続いたのですが、
百科事典の紙版出版を2010年に止めました。

インターネットの普及がこの知識・情報の在り方を
一気に変えてしまったのです。

今や、「コピペ」と言う言葉が当たり前のように使われ、
検索によってでてくる情報をそのまま知識と考え、
利用できるところのみを「コピペ」して貼り付け、
また貼り付けしたのにもかかわらず、
これは自分が書いた論文ですと悪びれもせず
提出する輩までもがでてくる始末です。

リケン争いに負けた方が仰いました。
「ホントウニあるんです!」

いくら叫んでも、ご自分が書物を読んで、
あるいは実験して、考え、ご自分の経験と
咬み合せ、咀嚼したものでなければ、
誰も信じてはくれません。

このような時代になったのです。
それでも、安岡老師が仰った、
「腹中有書」は今も生きています。

生半可な知識を頭に入れた様に思っていたって、
そんなものは使える知識じゃない。

時間を掛けて自分の腹の中で織り交ぜられた
知識を醸成して、ストンと腑に落ちたものが
本物の知識として使えるのだと思います。

いえいえ、この状態になれば、もはや、
智慧と言ってもよいのではないでしょうか?

老師は、明確に次のように仰っておられます。
「知識」というものは、人の話を聞いたり、
本を読んだりして得るごく初歩的な薄っぺらいものである。

これに経験と学問が積まれてくると、「見識」となる。
さらに、この見識に実行力が加わると、「胆識」となる。
この胆識を持つことを「腹中有書」と言う。

書物を読むときに、数多ある書物の中から、
本物を選び出すことが非常に難しい時代となってきています。

本を読むと言うことが自分にどのような作用が
働くかを見るために、若い頃(あるいは小さい頃)に
読んだ本を手に取って、今、読んでみられるのと解りやすいでしょう。

まったく観えてくるもの・ことが違うのではないでしょうか。

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