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夢、結芽(ゆめ)?


是亦夢 非亦夢
弥勒夢観音亦夢
仏伝応作如是観

目次

夢とは結芽! 相手とあなたの芽を結ぶこと

おはようございます。
私の大好きな沢庵禅師が死に逝くとき、
作られた偈に次のような言葉があります。


是亦夢 非亦夢
弥勒夢観音亦夢
仏伝応作如是観

すべては夢
正しいと思うこともまた夢、
誤っていると思うこともまた夢

弥勒が56億7千万年後に出現することも夢ならば、
観音がわれら人間の行く道を指し示すことも夢。

仏陀は今あることを今あるままに観ることを
なせと伝えている。

しかしながら、これすらも夢。


私が勝手に解釈していますので、ご了承ください。
沢庵禅師のように達観できて居りませぬ故。

沢庵禅師はこのような偈を作られ、示寂されました。
まさに傑物です。
すべてを彼の身、一代で完結させた人物です。

徳川家光が深く帰依し、法嗣をつくれと再三言ったにも
かかわらず、最後まで法嗣を選定せず、

さらに
「後世において、我が禅を継いだと称する者は法賊」と
まで言い放っています。

彼が全ては夢と言っていることをわれわれは
心すべきではないでしょうか?

先達、3人の観た「夢」

古来、人生を「夢」と看破した人物は何人もいます。
われわれが知っている人物としては、
織田信長、利休居士、太閤秀吉。
それぞれがこのように伝えています。

(織田信長公)
「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻の如くなり 
この世に生を受け 滅せぬもののあるべきや」(敦盛の一節)

人間の持つ欲とは違うのですが、天界においても
やはり欲はあるようです。

天界における欲の度合いによって6つの段階に分ける
六欲天の最下層が、下天ですが、

人間の五十年に及ぶ人生すべての時間が、
下天における一昼夜に過ぎないと言われています。

このように考えれば、人間の一生などは
夢なのでしょう。

(利休居士)
「人生七十、力い希咄、吾這宝剣、祖仏共殺」

人生70になって、ええ~い。おお~っ。
この馬鹿者! 我がこの宝剣を持って、
祖先、先達、仏と供に(我が人生を)終わらせん。

*力い希咄(りきい/きとつ)の「い」は、国がまえ(口)の中に、力と書くのですが、字体が見つかりませんのでひらがな表記とさせていただきました。

利休の辞世の句では、潔い利休の気持ちが
表れていると思います。
凄い気魄です。

禅の影響を深く受けた利休らしく、他者へ伝える
芸術としてではなく、1個人で完結する茶道を求め、

後に続くわれわれ愚者への強い教えと
したのでしょうか?

(豊臣秀吉公)
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 
難波のことは夢のまた夢」

秀吉が何を想っていたかはクマごときに
解るはずもございませんが、

一生を生き切ったときにこのように
感じるのでしょうか?

このように観て参りますと、沢庵禅師、信長、
利休、秀吉の御四方に共通して観られるのは、

自分の生きた人生を「夢」と
言い切れる強さです。

人生を悔いなく生き切ったからこその
感じ方なのかも知れません。

ただただ、自分のために名を上げることに終始する。
自分のためにお金を儲けることに終始する。

これを目的とするか、それとも他の人の
ための目的を見出すか?

これによって、人生に対する見え方が
違ってくるのではないでしょうか?

ユメとは思いを結びそこに芽を出し、結果を創ること

夢とは、一歩一歩の連なりを伴う途切れる
ことのない時間の経過の中で、

高い山や深い海を乗り越えさせていただくと
言う経験を積み重ねることで、

遠き夢を儚き(はかなき)ことではなく、
結芽(ゆめ)として現実に生じさせること。

ユメとは思いを結びそこに芽を出し、
結果を創ることだと私は思います。

そして、その結果は自分のために終始することなく、
他者を活かすことで完結されることだと思います。
このこと、ユメユメ疎かになきよう。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
クマこと高柳昌人(向龍昇人)でした。

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